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狩俣の歴史

沖縄、琉球、宮古島(宮古諸島)の中では特異な歴史があると言われている狩俣集落。
その歴史は何百年前から伝わる神謡により口承されています。
平家落人、渡来人、琉球人などさまざまな人種・伝統・歴史が融合した集落です。

狩俣集落の基盤

伝承によれば、大浦集落(狩俣の南)近くにあるタバルズという場所に、
流れ着いた人々が水を求めて北上、
そして、現在の狩俣集落の東海岸にあるイスゥガーという井戸を発見したことにより、
集落形成の礎を築いたと言われています。

琉球人

ご存知の通り、沖縄本島と宮古島の距離は約300キロ。
かつて、中国大陸、台湾、東南アジア、イスパニアなど世界の各国と貿易を行っていた琉球から宮古島の狩俣に琉球人が流れ着くのはごくごく自然な形といえます。

平家落人

1185年4月、源平合戦において敗れた平家方の集団が狩俣の東海岸に辿り着いたという伝承があります。
こんな南まで流れ着いたなんて本当だろうか?
そんな風に思われる方もいるかもしれません。しかし、実際、宮古島よりも南の西表島、竹富島にも辿り着いたという伝承があり、西表島の豪族、竹富島の赤山王は平家の末裔であると称しているそうです。

ここ狩俣には、平家落ち武者の末裔と言われている本家には古刀が残っていますので、その信憑性が非常に高まるところです。
実際にも狩俣の東海岸には平家落人が生活していたという箇所があります。
また、近年まで末裔と言われている一門の男性の名前には頭文字には「平」がつけられています。

現在の東海岸(引潮時)

渡来人

14世紀ごろ、中国大陸もしくは台湾から渡来人が流れ着いたという伝承があります。
中国の14世紀といえば、モンゴルの元に侵略された後の明の時代。
日本本土は南北朝の足利氏の時代です。渡来人が流れ着いた少し後で、ポルトガルから鉄砲伝来がありますので、大陸から渡来人が来てもなんら不思議ではありません。

さて、この渡来人は名前も伝承されており「クバラパーズ」という方です。
クバラパーズは狩俣集落に多大な影響を及ぼします。

まず、城郭集落の形成、現在もその名残が狩俣集落内で見ることができます。集落入り口にある石門(トゥーリャ)です。
また中国の陰陽道、易学、石工・木工、風水にもたけ、神通力もあったと言われています。

実はそもそも城郭集落自体が日本には存在しない建築物です。
「お城」について研究している学者さんがおりますが、その方の研究では「日本のお城では、お城の周りに集落や民衆が住む形をとります。ところが、中国大陸・ヨーロッパのお城は町ごと壁でとりかこむ建築方式をとっています」
これは、中国大陸やヨーロッパでは他民族の襲撃に備えなければならないという地理的な背景があります。

現在のトゥーリャ(復元)

伝承を引き継ぐ狩俣・神謡

多民族の融合により現在の狩俣の基盤が出来上がったと言えます。
一部の人々は、本土へ赴き鍛冶技術を習得して帰り、農機具の作成に貢献したと言われており、鍛冶の神様として崇められております。
また、前述のクバラパーズも集落の守護神として崇められております。
水源を発見した人々も水の神となって狩俣集落の人たちを守る神として崇められております。

これら一連の伝承が、神謡の中に謡い継がれ今に伝わっております。

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祭事で使われている神聖な場所(ザー)
大正の時代に撮影されたムトゥ(神聖な元屋)
現在のムトゥ(神聖な元屋・ウプグフムトゥ)